TEDx Kids @ Chiyoda 2012.10.28 (スライド+トーク原稿)
私には日本、台湾、それとベトナムの血が混ざっています。なのですが、父親の職業の関係でフランス国籍で生まれ、幼稚園から高校を出るまではフランスの学校に通いました。なので私が子供の頃、学校ではフランス語で学び、家では親が日本語、台湾語、北京語、ベトナム語を話すのが聞こえて来て、でもCDで聴く音楽の歌詞や映画で見る台詞の多くは英語で、大学はアメリカに留学しました。こんな様子ですから、私自身、自分が「何人」なのかということはいまだにはっきりと分かりません。
これまで30年生きてきて分かったことは、自分は結局「特定の何人」でもないんだ、ということと、それと「何人であるか」ということはあまり意味のあることでも役に立つことでもない、ということです。むしろ、とても有機的に、色々な文化のDNAが頭の中を渦巻いている感じがします。
こういう多言語の環境で生活してきていつも感じるのは、異なる国の言葉毎に違う文化、違う感触、違う世界観が広がっているということです。様々な言語の言葉を自由に混ぜて組み合わせることで新しい感覚が生じるのは、まるで食べたことのない料理を作るような面白さがあります。組み合わせ毎に違う感触、味わい、意味、奥行きが生まれます。
たとえば日本語には中国から輸入した漢字が組み込まれていますが、それを改造してデザインされた平仮名と片仮名が生まれました。いわば漢字をリミックスしたものが平仮名と片仮名です。そして今日では英語の単語を片仮名で表した和製英語も日本語の文化の中の一つですね。中国の漢字にしても無から生まれた訳ではありません。意味を表す表意文字、そして絵で世界を記号化する象形文字は世界に存在する様々なものをシンボルで表して、それを更に記号に変えたものです。木が存在するから、木という漢字が生まれたのです。音楽の言葉でいえば世界の「サンプリング」、つまり標本を採って、それを音や形に変えたわけです。最初に言葉や文字を作り始めたのはとても頭の良い人たちだったのかも知れません。しかし、その人が全部一人で言葉を作ったわけではなく、無数の世代の人たちがコツコツと積み重ねた結果、今日の私たちの言葉が出来上がりました。言葉とは無数の種類の木が集まって出来上がった森のようなものであり、それは文化の生命力を表しているように思います。
重要なことは、言葉は新しい言葉を生み出す資源であるということです。そしてそれは誰でも自由に聞いたり書いたり作ったりすることができます。言葉が自由ではなかったとしたら、どうなるか考えてみたことはありますか?たとえば私がある言葉を新しく作ったとします。それで、他の人がその言葉を使う度にお金を払わなければならないとしたらどうでしょう?実はトレードマークという、商品の名前を保護するシステムが存在しますが、この考え方を日常で使う言葉全体に広げるのはとても無理がありますね。言葉を発明するためには言葉を組み合わせます。組み合わせに使った言葉は先人たちが作ったものです。それでは新しく言葉が発明された時、先人たちにも使用料を払わないといけないことになります。この料金を適性に決めることはとても難しいでしょう。そうではなく、その発明された言葉は人の口から口へ伝播して、伝言ゲームのように変化したりしながら、人気の流行語になったりもしくは消え去ったりします。空気や水のように、言葉もまた生きる上での根本的な資源として、誰でも自由にアクセスでき、自由に使うことができるのです。そして空気や水とは違い、言葉はなくなりません。だから言葉の使用に国が税を課すことも、企業が料金を取ることもナンセンスです。そんな言葉があったとしても、誰もその言葉を使おうとはしないでしょうし、その言葉も発展しないでしょう。
ここでいう自由とは「誰でも許可を取ったりお金を払ったりしなくても勝手に使ったり、改造したり、他の人に教えたりしてもいい」、そういう自由を意味しています。この自由があるから言葉は生命のようにダイナミックに変化し続けることができるのです。過去にどのような言葉が作られてきたのかということの集積が言葉の歴史であって、新しく言葉を作るためには言葉の歴史を知る必要があるのだと言い換えることもできます。つまり、オリジナリティーというものは本来、過去・現在・未来、その全部を含めたうえでの他者とのコラボレーションの結果なのです。
インターネットの登場は、この文化が持つ自由なダイナミクスを増幅させて、世界中の人がリアルタイムでコラボレーションして作品を生み出すことを可能にしました。インターネットというと人工的なテクノロジーの塊のようなイメージがあるかも知れませんが、人間の「文化」という観点から見た場合、それは文化の自然に沿った技術なのです。インターネットは文化の力を飛躍的にブーストさせ、私たちは瞬間的にかつ世界規模で情報を届けることができるようになりました。今日、作品を複製して、流通させるコストは限りなくゼロに近づいていっていることを意味します。そして、文章、画像、音楽や映像といった「作品」という単位で分類される世界中の情報が自由に組み合わせて使うことが可能になったということは、「作品を通して表現する」ということが言葉を使うのと同じぐらい身近になってきたことを意味しています。あらゆる創造性の発露が相互に使い合うことのできる資源として共有できる、それがインターネットがもたらした文化的な希望なのだといえます。
しかし、作品を自由に共有するには同時にルールが必要です。人間の社会システムが進化するのにつれて、どのように文化を育てるのかということに関するルールが生まれてきました。創造的な作品を作る作者の権利を定義し、法律で守る「著作権」というシステムは300年ほど前にイギリスで生まれました。著作権の考えは、作者に自分の作品を使ってお金を得たり人々が使用することに関する独占的な権利を与えて、作ることのモチベーションを高めます。しかし同時に、その権利が一定期間しか保護されないように制限を加え、一定期間が経った後は社会の全員が自由にその作品を使うことができるようにする、というものでした。一定期間は作者のもの、しかし一定期間後はみんなの資源となる。
しかし300年の間に、この限定的な期間が爆発的に長くなってしまいました。18世紀の保護期間は作品が作られてから14年だったのが、現代は作者の死後70年というのが国際的に標準の長さになっています。たとえば僕が本を今書いて、僕が80歳まで生きたとすれば、あと120年待たないと他の人が自由に使えるようになりません。
結果的に、ひと世代前や同時代の作品を使って新しいものを作りたい場合は、お金は払わないと、という時代になりました。また、勝手に他人の作品を使うと法律で罰せられるということがことさら強調されるようになりました。著作権を保護して強化することに邁進し続けて来た企業が文化を監視して、自由な利用を罰するという社会が生まれました。結果的に、当初の著作権の理想である「個人の創造性を社会に還元する」ということが非常に疎かになってしまったのです。個人の創造性を社会に還元するとはどういうことでしょうか。個人が新しいものを作り出した時、その新しい価値を社会の誰しもが自由に使えるようにするということです。もともと新しい作品を作り出すためには、社会に還元された、つまり自由に使える文化資源を使うことが必要でもある。なので新しい作品に特権を与えすぎてはいけない、ということです。権利保護を厳しくし過ぎたり、作品の使用コストを高くし過ぎれば、文化から潜在的な作り手を遠ざけ、不要な紛争を引き起こしたりします。結果的に生じるのは「コラボレーション」の確率が少ない世界、そして一部のエリートが文化を作り、残りの人間はお金を払って買うだけの世界、です。
インターネットというコミュニケーションのインフラでは、この文化の自由を巡る戦いが繰り広げられてきました。それは文化のルールを再定義する、という新しい創造性の形を生み出しました。社会をデザインすることは、法律家や政治家のような専門家に限定されていた領域ですが、インターネットを活用することで法律を作るよりも時に早く、効果的に、ルールを更新することができます。
そこで、著作権によって作品を囲い込むという動きとは正反対に、作品を開放して他の人がより多くアクセスしたり触れるようにするという動きが生まれました。ソフトウェアの世界で生まれた「ライセンス」という方法です。著作権という権利は、法律によって自動的に作者に与えられます。そして自動的に作品は保護され、誰かが自由に使うことが阻害されるわけです。しかし、作者が自ら「条件を守ってさえくれれば、この作品を使ってもいいよ」という宣言を行うことによって、著作権を持ちつつも、他の人が自由に作品を使うことを可能にすることができるのです。作品の利用者が従うべき条件はフリーもしくはオープンなライセンスという汎用的な形にまとめ、多くのエンジニアが自分が作るソフトウェアにライセンスをつけて公開するようになりました。こうしたソフトウェアはフリーソフトウェア、無料という意味ではなく、自由なソフトウェアと呼ばれました。
その結果としてLinuxというオペレーションシステムが世界中の人々がインターネットを介して恊働作業をすることによって開発され、今日では世界中のコンピュータやスマホに搭載されるに至りました。同様に、文章、画像、映像、音楽といった作品の世界でも著作権を開放して、より自由なリミックスの文化をつくろうという動きが盛んになってきました。それがクリエイティブ・コモンズです。この自由なソフトウェアや自由な作品の世界を推進する運動の総称は今日、フリーカルチャーと呼ばれています。
たとえばTEDの動画は全てクリエイティブ・コモンズで公開されており、誰でも自由に共有することが許可されています。同様にYouTubeでは400万件以上の動画が、Flickrというサービスでは数千万件の写真が、そしてWikipediaに掲載されている2,000万件以上の記事もクリエイティブ・コモンズで公開され、自由に利用されています。こうしたインターネット上に存在する創造と学習のためのオープンな文化資源を、権利を侵害する違法なものとして排除する動きが今後とも強まれば、それは私たちの生活がただ不便になる、ということだけではなく、私たちの社会が明らかに一歩も二歩も後退することになるでしょう。それはインターネットによって可視化され、増幅されてきた「誰でも表現活動を行うことができる」という点と、「他者と一緒に情報や作品を作り合う」という文化の本質を、私たちから奪ってしまうからです。
言葉を使い、学び、作ることに何の制限もないように、作品を作り、共有し、お互いに作り合う文化を私たちはインターネット技術を活用しながら作ることが可能な時代に生きています。お互いの作品を自由に使い合う文化を作れた時、私たちは孤独ではなくなり、過去、現在と未来にかかる連帯のネットワークでつながることができるようになるでしょう。私は自分の子供の世代が、歴史の流れのどこに自分が位置しているのかを私たちよりも深く知り、文化の海の中を自由に泳ぎながら、創造活動を行うことのできる世の中が来ることを願っています。
未来の子供たちに文化を商品として消費するだけで作品が死んでゆく貧しい世界を残すのか、学びと創造の機会の多い豊かな世界を残すのか、それは現在の私たちの考え方と行動の仕方にかかっています。

TEDx Kids @ Chiyoda 2012.10.28 by Dominique Chen is licensed under a Creative Commons 表示 3.0 非移植 License.
http://www.slideshare.net/dominickchen/tedxkidschiyoda-2012にある作品に基づいている。





